今朝の空耳
今朝のニュース・天気予報では、女性アナウンサーの声が耳に木霊した:この青々とした空、心が洗われますね。
実はこの[心が洗われる]の意味は、小生はつい数年前まで別の意味でとらえていた。つまりこれを[心が顕われる]、または[心が表れる]と誤解していた。何となく意味も通じ、少し奇異に感じつつ自分を納得させていた。その後ちょっとした偶然で本当の意味が分かり、多少恥ずかしい思いをしたことも覚えている。
よくよく考えると、この心を洗う、心が洗わるというのも少し不条理な響きがする。大体心というのは洗えるものなのか?心と頭(脳)を分けて考えるのは漢字文化圏の古くからの考え方で、今でも心に記憶能力があると半科学的に語られている。
心が洗われるに近い言い方は、心が清められる、清々しい気分になる、心が澄み切るなどがある。多くの場合は大自然を前にしたり、素晴らしい景色を見たりする時にその中に溶け込んだ自分がこの上ない安らぎと感じ、癒される。この無の境地が昔から道として語られ、追求もされてきたことは承知の通りである。
同じく今朝のテレビで、元首相の中曽根康弘のインタビューがあった。そこで紹介された彼の俳句:
暮れてなお 命のかぎり 蝉しぐれ。
蝉は卵として生まれて成虫になるまで地中で七年間も過ごすが、脱皮してから十八日間しか生きられない。だから日が暮れても一所懸命に鳴く、その懸命さが中曽根氏の詩心をくすぐったのであろう。
蝉は昔から詩の対象として、特に詩人自分自身の高潔と不遇の象徴として歌われ、どことなく悲しさが滲み出るものが多い。例えば唐の駱賓王の《咏蝉》:
西陆蝉声唱,南冠客思深。不堪玄鬓影,来对白头吟。
露重飞难进,风多响易沉。无人信高洁,谁为表予心?
日本でも、同じ伝統があり、子規のこの句も旅の駅での風物詩なのに寂しさが読み取れる:
汗を吹く 茶屋の松風 蝉時雨。
中曽根氏がその反対の意味で蝉を詠んでいるである。
新年が過ぎ、また異国での生活が長くなった。考えてみれば人生の半分の半分をこの島国で過ごした。これからも何年いるか分からない。そこで一句:
まだ一つ 年を数えた 異国の地
唐の詩人賀知章の有名な詩:
少小离家老大回,乡音无改鬓毛衰。儿童相见不相识,笑问客从何处来。
昨年小生も何年ぶりに故郷に戻った。あまりに大きく変化したものと何も変わらないものが混在したのを目のあたりにして、深く感慨を覚えたものである。この日本の地は本当に我に合っている所なのか?あるいは故国に帰りもう一遍天地を開くか?新年早々頭を悩ます小生である。
2011年1月11日