(前回から続く)
前回、中国で起きた反日デモに対する「ヤラセ論」が根拠とした推論にはいくつかの共通点がある、と書いた。以下の3点だ。
(1)五中全会で次期国家主席の座を約束する軍事委員会副主席を選出することになっているので、習近平・国家副主席を選任すべく胡錦濤政権に圧力を加えるため、反胡錦濤側あるいは軍部側が仕掛けたものだ。
(2)その証拠に、デモの現場に居る警官はデモの経路を知っていてあらかじめそこに武装警官を配備していた。また警官は決してデモを強引に阻止しようとはせず、若者たちを見ているだけだった。
(3)08憲章の起草者である劉暁波がノーベル平和賞を受賞したので、それに対する国民の関心をそらすために政府が仕掛けたものだ。
これらが、いずれもいかに的をはずした推論であるかを述べてきた。今回は(3)について述べる。
(3)に関して:
もし「08憲章」が中国でそのような力を持っていると考えているとすれば、それは非常に大きな勘違いである。
筆者は2010年11月12、1 3日と明治大学で特別公開講義を行なったが、会場には1週間ほど前に来日したばかりの、北京にある清華大学の元大学院生が出席していた。拙著『中国動漫新人類』で取材した、ナノテクを専攻していた張玉蛍である。彼は清華大学のナノテクという超エリートコースを放棄して来日した。動漫研究をして、動漫関係の日中交流的仕事をしたいからだという。
この日、会場から反日デモに関連して「08憲章は中国ではどういう影響を若者に与えているのですか」という質問があった。
そこで筆者は「現在の若者は価値観が多様化しており、反日デモに参加するのはほんの一部分です。08憲章に関しては、ほとんどの若者が知らないというのが現状ではないかと思います」と答え、ついでに会場に居た清華大学の張宝蛍くんに「あなたはどう思いますか?」と尋ねた。
すると、その張くんは携帯電話を覗きこんでいてなかなか答えない。答えを催促すると、彼は言ったものだ。
「先生、すみません。その08憲章って、何ですか? ちょっと聞いたことがないので、今、急いで携帯電話で検索しているのですが、憲章という文字は懸賞ですか?」
会場が笑いの渦に包まれたことは、言うまでもない。
しかし、この程度なのである。これが中国の現実だ。
従って、反政府デモに切り替わることを十分に承知している政府が、わざわざ、その危険を冒してまで、「08憲章」から目を背けさせることを目的としてヤラセの反日デモをけしかけるわけがない。必要性は皆無だ。
「08憲章なんて、若者は関心を持ってない」
筆者は念のため政府高官に以上の3点に関して確認した。長年にわたって国務院西部開発弁公室人材開発法規組の人材開発顧問を仰せつかってきたため、その道の人脈はいやというほどある。そこで最も権威のあるランクの高官に尋ねたところ、3点とも筆者の見解を肯定してくれた上で「政府は絶対にヤラセてはいない!」と断言した。
「そもそも、最近の若者が、政府の言うことを聞くと思いますか? もし素直に政府のヤラセに応じるようなら、中国政府は苦労しませんよ。今の若者たちは権利意識が強い。自分の天下だと思っている。だからこそ、政府は苦労してるんじゃないですか。まず圧倒的な発言力を持つ若い網民たちをなだめながらでないと、国際社会に立ち向かうことだってできないんだから、苦労しますよ、われわれも」と述懐したのである。
ついでに「今回の反日デモは08憲章に対する関心をそらすためという分析をする日本人研究者が居るのですが、これについてはどう思われますか?」と聞いてみた。すると、こうした回答が返ってきた。
「何を言ってるんですか! 冗談じゃない。08憲章なんて、若者は関心を持ってないし、知らない者の方が多い。若者が関心を持っているのは就職難とか住宅価格の高騰など、自分の身の回りの生活に関することで、デモの色合いがそちらにシフトするのをわれわれは最も恐れている。デモによる表現の自由はあるが、しかし、どんなデモでも歓迎はしない。理性的に表現するのはよいんだが…」。
「中国政府のヤラセかもしれないなどということ自体、中国の現状をあまりに知らない人の言うことだが、その理由の一つとして08憲章を引き合いに出すなんて、そういう人はよほど中国を分かってない人なんでしょう。今デモが広がるとすれば、それは前原外相の発言が大きく影響していると思いますよ。彼はなぜあそこまで次々と中国を刺激するような発言をわざとするのだろうか。日本の民主党というのは、自民党よりも反中的言動が目立ちますね。期待していただけに残念ですよ」。
その数日後、反日デモは色合いを変え、この高官の言った通り、10月24日、「住宅価格高騰反対!」という横断幕が反日デモに混ざって現れた。彼の分析がいかに正確だったかを物語っている。
そこで筆者は感謝の意味も込めて、再度高官に連絡して「やはり、おっしゃっていた通りでしたね。宝鶏市のデモで“住宅価格高騰反対!"という横断幕が出ましたね」と言った。
すると高官は、「そうですよ。言った通りでしょ? 政府内でもし、このことを最初から予測できない者が居るとしたら、そういう人は政府の役人になる資格さえない。だから政府がヤラセをやるなんて、どこから考えてもあり得ないことです。特に10月16日には五中全会が開催されていた。中国では最も警戒が厳しくなる時期です。いかなる抗議活動も、最も起きてほしくない時期でしょ? もしこんな時期に政府の中にデモのヤラセをやった者が居たとしたら、当然罷免されるだけでなく、党籍剥奪も覚悟しなければならないでしょう。それに五中全会はもう終わりましたよねぇ。それなのにまだデモの呼びかけが続いているのはなぜですか? もし習近平に対する後押しなどということだったら、説明がつかないでしょ?」。
「そうですよね。その通りだと思います。実は私自身もそのように考え、主張しているところなんです。聞くところによれば、なんでも、中国政府のヤラセ情報というのは、香港筋とか、海外の中華圏サイトあたりが情報源のようですね」。
「ああ、彼らは何でも言うでしょう。実態を見るより、邪推が好きだから。だってほら、アメリカの9・11テロ事件でさえ、アメリカ自身が起こした、まさに“ヤラセ"だという説さえ出たじゃないですか? そんなもの、まさか信じる人はいないとは思いますが、しかしまことしやかに伝わり、奇異性を狙っている。奇異なほうが情報価値があると思って書くジャーナリストが、どこの世界にでも居るものですよ。まあ、気にしないで、真実だけを見ていきましょうや」。
筆者は納得し、この問題に関しては、これ以上追求するのをやめることにした。
中国外交部報道官の発言の真意
いっぽう10月16日、中国外交部(外務省)の馬朝旭報道官は、反日デモに関する記者の質問に以下のように答えている。
「中日両国は重要な隣国である。両国間にいくつか存在する敏感で複雑な問題に関しては、対話を通して、適切に解決し、両国間の戦略的互恵関係を共同で守ることを私たちは主張している。一部の国民が、近ごろの日本側のある誤った言行に対し憤りを表すことも理解できるが、法律に則って、理性的に愛国の情熱を表現すべきだと私たちは主張しており、非理性的で法律に反する行為には賛成しない。多くの国民は、必ずや愛国の情熱を本来の仕事に転化し、本来の自分の仕事に邁進するという実際の行動に専念することによって、改革、発展、安定という大局を維持するものと信じている」
日本では主としてこの傍線部分のみが報道されたためもあろうが、馬朝旭報道官の「理解できる」という言葉だけを取り上げて、日本の前原誠司外相は「私は理解できない」と発言した。
この発言は中国側の行動を「ヒステリック」という言葉を使って非難した前原外相の言葉とともに、中国では大きく報道され、全国民の反感を招いた。やや親日的な良識派の対日感情をさえ逆なでし、若者の反日感情をいやが上にも燃え上がらせたことは言うまでもない。
馬朝旭報道官の発言をじっくり読むと、中国政府の対日政策が浮かび上がってくる。中国の政治家あるいは報道官は、漢字一文字にも非常に注意深く神経を払った文言を、練りに練った結果発言するので、そこにはかなり深い意味が込められている。日本のような政治家の「うっかり発言」などという軽率なことはまず起きない。
馬朝旭は中国政府としては「対話を通じて平和的に両国間の戦略的互恵関係を維持したい」と考えていることを、このような事態においても発信し、その上で若者への「理解」を示しているのである。もし理解を示さなかったら、激昂している若者たちをさらに刺激することになるだろう。だから親が子供を諭すように「君の言うことは分かるよ。でも、自分の本来の仕事に邁進しようね。それによってこそ君たちの中国は発展するのであり、それこそが本当の愛国なんじゃないかな。だから仕事の方に愛国の情熱を向けるようにしようね」と言っているのだ。
それを大人気もなく「私は理解できない」というような言葉を国際的立場にある者が短絡的に言ってしまっていいのだろうか。その発言が日本国民の生活を守り、経済発展を促進することにつながるだろうか。
私が質問攻めに遭わせた中国政府高官は「一国の外務大臣としてはもっと大きな器と品格が求められるのではないのだろうか。日本は慎重さというか深慮遠望に欠けていて、われわれを苦しめている。われわれは、もっと日中友好の雰囲気をつくってほしいんですよ。そうでないと、中国も困るし、日本国民も困るんじゃないのかな」と嘆いた。
中国政府は実は自国の若者と日本の言動の間で板挟みになっているように感じられる。九一八反日デモに関しても、デモを起こさないようにするため、そして起きてもそれが激化しないようにするため、中国政府がどれだけの努力をしてきたことか。
そういうことは日本ではほとんど報道されないし、そこに焦点を当てる試みもあまりなされていないように思われる。
前原外相の「理解できない」発言も、「理解できる」部分だけが繰り返し報道されたので、前原外相はその部分にのみ反応したのだろう。こういうときにこそ、日本の外務省の役人は、馬報道官の発言の全体像と全文を外相に伝え、馬発言の真意を説明すべきだろう。それが彼らの役目ではないのだろうか。それとも「本来の仕事に邁進してくれ」と若者に懇願している馬報道官の発言を最後まで知った上でも、前原外相はやはり「私は理解できない」とコメントしたのだろうか。
中国の若者は、政府の命令に従順ではない
中国の若者をコントロールするのは難しい。
トップダウンで培われてきた「主文化精神領域」から、自らの選択で培ってきたボトムアップの「次文化(サブカルチャー)精神領域」へと瞬く間に身軽に移動していくのが現在の若者だ。
10月の一連のデモでは、ネットに笑えないジョークがあった。
「戦国BASARAのゲームを遊んで終わったら、MIZUNOのスポーツウェアを着て家を出て、吉野家で牛丼を食べ、ホンダの車に乗って反日デモ集合地点に行こう!そして大声で“日本製品ボイコット!"って叫ぶんだ」
自嘲的ブラックユーモアというか、実にうまく若者の現実を表している。
拙著『中国動漫新人類』で詳述したように、中国の若者たちはトップダウンにより形成された「主文化領域」では日本を憎み、激しい抗日運動に燃えるが、自ら選んだボトムアップの「次文化(サブカルチャー)領域」では日本動漫が大好きで、日本のファッションも電化製品も愛用するという、ダブルスタンダードを持っている。普段は「次文化」の精神領域で気軽に日本製を楽しんでいるが、ひとたび“靖国問題"や “釣魚島(尖閣)問題"などが浮かび上がってくると、まるでスイッチを切り替えるように突然「主文化」の精神領域に入り込んで激しく燃え上がるのである。
そのいっぽうで、インターネットを通してグローバル化していった中国の若者の精神性は、多様な価値観も育んでいることを見逃してはならない。
デモに参加した者の合計人数がたとえ数万になろうと数十万になろうと、「80后(バーリンホウ)」(1980年から89年までに生まれた者)の人口は約2億人、「90后(ジュウリンホウ)」(1990年から99年までに生まれた者)の人口もまた2億人。合計4億人も居るのである。
10月16日から始まり11月14日までくすぶったデモは数百人規模から最大で1万人であった。それらを合計しても4億人のほんの一部にすぎない。
おまけにデモ隊の先頭を切る若者の中には、必ず「憤青(フェンチン)」(憤怒青年)という過激な民族主義青年が居る。彼らは「愛国か誤国(国を誤らせる)か」とよく批判されるように、中国の良識的な人たちからは警戒されている。
4.2億人の網民(ネット市民)の60%は80后以下の年齢層によって占められている。10代か20代だ。愛国主義教育を骨の髄まで染み込ませた「中国の未来の担い手」なのである。
そして彼らは決して中国政府の命令によっては動かない。
こんな大変な存在を抱えながら、中国という国は動いているのである。
強大さの影に、痛々しいほどの脆弱さが見え隠れする。
10月に起きた一連のデモを「政府のヤラセ」だという推論が、どれほど罪深く、中国分析を誤らせるだけでなく、日本の対中政策を間違った方向に導いてしまうかを正視し、自重しなければならないのではないだろうか。
なお参考までに、中国にある抗日戦争関係のウェブサイトをいくつかご紹介しておこう。100個以上あるが、その中のごく一部分である。反日デモが起きるときには、非政府系の類似のサイトからの呼び掛けも少なくない。
「中国抗日戦争網」
「中華抗日同盟」
「南京大屠殺遇難同胞紀念館」
「918事件紀念館」

中国の対日外交を読み解く:カギは「網民」の民意
中国において、ネット社会がその存在感を増している。国内の社会不満に対する告発はもちろん、対日外交政策も4.2億に上る「網民」(ネット市民)の意見を無視して進めることはできない。
尖閣問題に伴う反日デモは「愛国主義教育」で育ってきた若者がネット空間からリアル空間に飛び出したものだし、ハノイ日中首脳会談キャンセルも、網民の反発を恐れた結果だ。ノーベル平和賞につながった「08憲章」もまたネット空間に放たれたものであり、APEC首脳会議でようやく実現した日中首脳会談における胡錦濤国家主席のこわばった表情の背後にもネット世論への配慮がちらつく。
この連載では、9月以降に起きた日中間の出来事に斬り込み、中国ネット社会の民意がどう影響したかを読み解くとともに、今後の日中関係を展望する。早くから中国のネット言論に注目してきた著者の鋭い論考に期待したい。
