「アメリカの給料をもらい、中国の食事を食べ、イギリスの家に住み、日本の女性と結婚するのが天国だ」という言葉がある。日本女性の魅力は世界的に有名だ。20世紀に中国の著名人に嫁いだ日本人女性は少なくない。例を見てみよう。
蒋百里を愛した女性看護士
軍事学者で前陸軍大学代理校長の蒋方震(百里)の愛妻?左梅(姓は佐藤)は元々中国駐在日本公使館の看護士長だった。蒋百里の看護に派遣された時に2人の間には愛が芽生えた。彼らの娘のピアニスト?蒋英はドイツに留学し、後に銭学森の妻になった。
「名将の花」蒋百里は中国で最も才覚のある軍事学者と呼ばれているが、抗戦期間中に過労により睡眠中に死亡した。当時、馮珠祥は香港で文章を発表し、蒋百里は日本人の妻?左梅に毒薬で殺されたと言いがかりをつけた。娘の蒋華はそれを知るとすぐに電報を打ってきっぱりと否定し、事実をはっきりさせた。
日本人女性の左梅は夫の蒋百里に寄り添って生涯を終えた。蒋百里の抗日行動を共にするために、彼女は自ら日本の親戚との一切の関係を絶ち、子供にも日本語を教えなかった。蒋百里の死後、彼女は日本人女性であることから白眼視されたが、ずっと中国に留まり、1978年に北京で亡くなるまで蒋家を守って過ごした。
郭沫若の異国との縁
郭沫若とその友人に嫁いだ姉妹
文豪?郭沫若の異国との縁は、彼の心の中で永遠の痛みとなった。1892年に四川省楽山沙湾鎮で生まれた郭沫若は1914年7月、22歳の時に日本に留学し、日本?東京の第一高等学校予科に進学した。予科卒業後は岡山第六高等学校に編入し、医学を学んだ。
佐藤富子は1895年に日本?仙台で生まれ、父親の佐藤右衛門はキリスト教の牧師だった。富子が21歳の年に、母親の佐藤初が娘に相談せずに婚約を決定したため、富子は家出して京橋区にある東京聖路加病院に来て看護士となった。彼女はこの病院で郭沫若と知り合い、恋に落ちた。この2人の馴れ初めは有名な話だ。
郭沫若の妻の妹と結婚した陶晶孫の異国との縁は逆にあまり知られていない。陶晶孫は日本の帝国大学で郭沫若と共に医学を学び、佐藤富子の妹?佐藤操と結婚した。
陶晶孫は多芸多才だった。彼は生涯を医学の研究に奉げ、中国の現代予防医学と寄生虫学研究の先駆となった。小説や音楽、美術といった面でも造詣が深く、日本語とドイツ語が流暢で、いくつかの文学作品を翻訳している。
佐藤富子の妹?佐藤操は高い教育を受け、文学や音楽好きだった。彼女は陶晶孫と知り合った時、仙台のある女学校で英語教師をしていた。彼女と陶晶孫とのロマンスはピアノをきっかけとして始まったという。
佐藤富子は後に郭安娜と改名。陶晶孫に嫁いだ妹の操は陶弥麗と改名した。運命に翻弄されながらも、彼女達はずっと家庭を支え、中国人の夫に忠実に仕え、中日国際結婚の結晶である混血の子供達を育て上げた。姉妹はいずれも典型的な日本の良妻賢母だった。
日本人女性を妾とした辜鴻銘、康有為
辜鴻銘は、日本の女性は貧しい下層の女性でさえ温和で従順、純潔、敏感で誠実であり、女性らしさに富み、一種の高貴な気質を持っていると考えていた。こうした気質は元々は古代(特に漢や唐の時代)の中国の女性も持っていたものだ。日本の女性を賞賛する辜鴻銘は言葉だけでなく行動でも実践している。彼は日本人女性?吉田貞子を妾とし、彼女がいないと眠ることもできないほどだった。
また晩年の康有為も日本人の少女?市岡鶴子を妾としていた。1911年6月7日に康有為は梁啓超の招待に応じてシンガポールから日本へと移住している。翌年の春に康有為は家政婦としてとして16歳の市岡鶴子を雇った。
1913年に康有為が帰国してまもなく、市岡鶴子も上海に移った。辛家花園の遊存廬で鶴子は康有為の4番目の妻となった。1925年初めに28歳の鶴子は身ごもったが、同年康明為は68歳だった。同年秋に鶴子は日本に戻って娘を産み、凌子と名づけた。
「人民網日本語版」2010年4月6日